瑠璃のかなたに

最後の女帝 孝謙天皇ー称徳天皇

10月23日放送のBS放送 英雄たちの選択「道鏡か否か?愛に揺れた女帝」を興味深く見ました。主にその要旨をまとめたものです。

孝謙天皇はいったん退位し淳仁天皇に天皇の位を譲渡したあと再び天皇位について称徳天皇となった女帝です。

父は東大寺の大仏を建立した聖武天皇、母は藤原氏の出、光明皇后です。二人の間に男子は一歳を待つことなく死亡し、唯一娘の安倍内親王のみが成人しました。後の孝謙天皇です。

安倍内親王は18歳で立太子となり31歳で孝謙天皇として即位しました。

聖武天皇から言い渡された2つのつとめをいいわたされた。

  1. 三宝を栄えさせよ (仏教の興隆)

  2. 孝謙天皇がふさわしいと認めた人物に皇位を継承させる

女性天皇は独身であることが条件なので安倍内親王への譲位は天武系の天皇の終わりを意味することになります。

聖武天皇は娘に女性として始めて皇太子の位につけ徹底した皇王学を施しました。

正常な後継者であることを貴族たちに認めさせました。

聖武天皇の思いとは裏腹に貴族たちの見方は冷ややかで、貴族たちの認識は「孝謙天皇は中継ぎである」が強かったようです。

天平勝宝8年(756年)聖武上皇崩御、その後皇位をめぐる陰謀がにわかに動き出します。

首謀者は光明皇后の甥の藤原仲麻呂で大炊王を天皇に即位させようと画策します。

仲麻呂の勧めによって孝謙天皇は大炊王への譲位に踏み切り自らは孝謙上皇となります。

大炊王は淳仁天皇として即位しますが仲麻呂は淳仁天皇を傀儡として政治を思いのまま動して行きます。

孝徳天皇は失意のうちに病に倒れます。

この時期に道鏡が看病禅師としてまじないの力で孝徳上皇の病をなおします。

道鏡は、当時の仏教の先覚者で科学、医学をはじめ様々の分野で最先端の知識を身に着けていました。

サンスクリット語を解し仏典を解読することもできました。

道鏡は孝謙上皇にとって頼れる存在で、強力な後ろ盾となったのです。

孝謙は42歳にして出家、居を法華寺に移し、政は小さいことは淳仁天皇が行え、国家の大事と賞罰は私が行うと宣言します。

国政を奪還するために武力蜂起をもくろんだ、天平宝字8年(764年)藤原の仲麻呂の乱で機先を制した孝徳上皇が勝利し仲麻呂は首をはねられ失脚しました。

天平宝字8年(764年)孝謙上皇は称徳天皇として再び即位することを決意します。

称徳天皇は後ろ盾の道鏡を法王の位に着け自分と同等の地位にまで登らせます。

事件の発端は九州の宇佐八幡宮の神託でした。

「道鏡を皇位につければ天下は太平となるであろう」

称徳天皇は和気清麻呂を八幡宮に遣わし、再度真意を確かめさせようとします。その返事は

「我が国が始まって以来、君臣の別は定まっている天皇の位は必ず皇統をたてる。無道の人は排除すべし。

無道の人道鏡を追放せよ」というものでした。

称徳天皇は一部の貴族の画策があったことを知りながら、貴族との和解の道を見つけます。

処分は和気清麻呂の首を跳ねるだけにとどめ、貴族たちの画策を不問にしました。

道鏡は法王の位を奪われ、下野薬寺にうつされます。

称徳天皇53歳で死亡。称徳天皇を最後の女帝として以後女帝は出ていません。

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称徳天皇は聖武天皇の娘井上内親王と光仁天皇の子、他戸親王を後継者に指名しますが、天皇の位は、称徳天皇の意に反して天智系の光仁、桓武に受け継がれていきます。

桓武天皇は平城京をすて平安京を作り、仏教の政治の世界への介入を阻止しました。


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by pypiko | 2014-10-28 10:09 | その他