瑠璃のかなたに

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カラッバジオ 

ミケランジェロ・メリジ・カラッバジオ 1571~1610
以前にテレビで放送された天才画家カラバッジオの録画を見た。先日ローマを一人歩きしてきた際、カラバッジオの絵を見るためにわざわざサン・ルイージ・デイ・フランチェージ聖堂へ立ち寄ってきたばかりなので興味が倍加した。カラバッジオはミラノの郊外で生まれる。幼少時からすでに自分の才能に気づいていた。そのためクレモナ、パルマ、ボローニャ、フィレンツェ、ローマと渡り歩き絵の修業に励んだ。ローマに出てナボーナ広場で描いた絵を売って日銭を稼いでいた。生来の性格から暴力沙汰が絶えず、絵にもそれが表れ血塗られた絵を多く描いていた。旧約聖書から題材をとったものが多く「ホロフェルネスの首を斬るユディト」では首を切る瞬間を、「イサクの犠牲」ではアブラハムが息子イサクの首を切ろうとする瞬間を、天使がそれをとめるところをリアルに描いた。
かれの絵に目を留めた人物はフランチェスコ・デル・モンテ枢機卿で彼の宮殿に住まわせ絵を描かせた。枢機卿はそれらの絵を贈り物として貴人に与えた。それ故今も尚「バッカス」をウフィツイ美術館で「女占い師」をルーブル博物館で「リュートをひく若者」エルミタージュ美術館で見ることが出来る。また枢機卿はサン・ルイージ・デイ・フランチェージ聖堂の建築時には「聖マタイの召命」「聖マタイの天使」「マタイの殉教」をカラバッジオに依頼している。
ローマでの滞在時に暴行、器物破損、公務執行妨害、武器不法所持、名誉毀損、脱獄、殺人未遂など問題行動が絶えず、最後に殺人罪で逮捕された後はパトロンの助けもあってローマからトレンチーノ、ジェノバ、ナポリと移動しその間も多くの作品を描く。ナポリで名声が高くなるにつれローマに知られる恐れから、さらに南へと逃亡、マルタ島に行き着く。マルタ島に行ったことは常に剣を所持出来る騎士の称号を得ることがもう一つの目的であった。騎士の称号は本来貴族出身のものに限られ、戦争外で殺人を犯したものには授けられないが、騎士団長の肖像画を気に入られ騎士団への入会を許される。マルタ島のサン・ジョバンニ大聖堂の建築に際し、依頼され「執筆する聖ヒエロニズム」「洗礼者ヨハネの斬首」を制作。しかしここでも再び身分の高い聖人を襲い殺人未遂の罪を犯す。またも逃亡生活を余儀なくされシチリアへ逃れる。シチリアでも作品を残す。ローマへの思いが募り、ナポリへ行き「ゴリアテの首をもつダビテ」を描きダビテが手にもつゴリアテの首は自分の首をモデルに描き、悔い改めたことを表し、ローマに許しを請う手紙を送るも返事をもらえず、落胆する。ローマ近くの街パロ、ポルト・エルコレに移動し、マルタ騎士団の反撃で受けた傷が元でポルト・エルコレ死亡する。38才の若さだった。後のレンブラント、ベラスケス、フェルメールに影響を与える。

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サン・ルイージ・デイ・フランチェージ聖堂所蔵の 
左から「聖マタイの召命」 「聖マタイと天使」 「聖マタイの殉教」
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by pypiko | 2011-10-30 20:33 | その他

スティーブ ジョブス

コンピューターを専門的知識を有する層だけでなく世の中一般に広めたことで多大の功績のあった、スティーブ ジョブス氏の自伝が出版される前から評判を呼んでいるそうです。先の短い生命を予見した、ジョブス氏自らの依頼を受けジョブス氏の伝記の執筆に当たったウォルター アイザックソンは元タイムズ紙の編集長にして著名な伝記作家で18ヵ月、40回以上にわたる密着取材により「スティーブ ジョブス」を書き上げそうです。

「スティーブ ジョブス」は11月21日発売予定がジョブス氏の急逝を受け一巻10月25日、二巻11月1日に緊急出版される事となったそうです。今日の中日新聞の週刊現代の広告に「スティーブ ジョブス」の内容の概要が連載されると知って、さっそく購入しました。天才はしばしば奇人だといわれています。ジョブスの天才にして奇人ぶりが伺えました。彼は自分が選ばれたものであることを自覚していたそうです。週刊現代の記事の内容をひろってみました。

“僕らは皆、少しのあいだしか地上にいられない。本当にすごく上手にできることなんて、たぶん、ほんの少ししかないんじゃないかな。 どのくらい地上にいられるなんて、誰にもわからない。もちろん僕にもわからない。でも、若いうちに多くのことをしなければならないーーーそう思うんです” ジョブスが28才の時の言葉。

“ジョブスは上司としても人間としてもモデルになるような人物ではない。わかりやすくて皆がまねしたいと思うような人物ではない。悪鬼につかれているかのように、周囲の人間を怒らせ、絶望させるのだ。しかし彼の個性と情熱と製品は全体が一つのシステムであるかのように絡み合っているーーーアップルのハードウェアーとソフトウェアーがそうなっていることが多いように。” 

スティーブ ジョブス氏は未婚の母から生まれ生後まもなく機械に情熱を傾ける高校中退の父・ポールとまじめな母・クララの養子になる。

学校では頭が良すぎて問題児に。学校では勉強が易しすぎてつまらなかったため担任の椅子のしたに爆薬を仕掛けるなどたびたび問題行動をおこした。学校側の要請で2学年飛び級させられ、年長児の中に放り込まれたことが辛い経験となった。

妻・パウエルは、ジョブスが好む神秘的な女性ではなかったが、聡明で、彼の激しい気性を受け止められる良妻だった。

等々記事の内容でした。次回週間現代も購入する予定です。出版本は購入しないでおきます。
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by pypiko | 2011-10-24 19:34 | その他

伊作文 ドナルドキーン

Io ho guardato alla TV il programma su Donard Kean che è divenuto giaponese .
In questo programa lui parlava perchè lui ha deciso la sua naturalizzazione in Giappone dopo il disastro del terremoto di Tohoku di Giappone quando molti stranieri hanno lasciato il Giappone.
Lui ha una profonda conoscenza della letteratura giapponese, ha pubblicato molti libri ; dei libri tradotti in inglese dalle molte famose letterature giapponese o la storia della letteratura giapponese che consiste in 18 volumi ecc .
Attoraverso questi lui intende di mostrare il Giappone vero al mondo con tutta la propria vita.
Io voglio parlare di qualche episodo impressionante trattato nel programma.
Lui è nato nel 1922, e ora ha 89 anni. Lui dice che la sua faccia non si trasforma, ma ora i contenuti sembrano essere giapponesi.
Il motivo che prima gli ha fatto prendere interesse al Giapone era da "La storia di Genji" da transdutto da Arthur Waley アーサー・ウェイリーche l’ho potuto comprare per il prezzo a buon mercato a 45 centesimo.
Lui ha studiato il giaponese all' Università di Columbia. Poì per continuare a studiare il giaponese èd entrato nella scuola di giapponese della marina militare di California. Poì lavorava come tradottore giaponese nella marina militare. Per lui il lavoro non era interessante perchè il contento era noioso.
Attraverso lo scambio con dei giapponesi sul lavoro della guardia dei prigionieri giapponesi nel campo dei prigionieri hawaiiani sembra avere approfondito comprensione del sentimento dei giaponesi.
Raccolto dei diari scritti dai giapponesi al tempo della situazione difficile prima o dopo di fine della guerra finito dalla sconfitta di giapponese, li ha messi in un libro e l’ha pubblicato.
Tra questi lui ha preso una grande impressione in l'agenda della sconfitta 敗戦日記" scritto da Jun Takami .
 
Le parole nell'agenda di Jun Takami hanno sostenuto la determinazione per divenire giapponese. 

Lui ha seguito il percorso di "nel profondo dei sentieri" 奧の細道del Basho per due volte. Lui è incantato dalla bellezza del tempio dorato di Chuson-ji. Lui ha detto che
per lui era come essere in paradizo in terra. Secondo lui avrebbe essere più presto tra i tesori culturali del mondo.

La bellezza del fiore di sakura l'ha accettata, ma per lui era dificile accettare il costume che ci bevono sake, ballano e fanno rumore. Ma oggi lui può accettare anchè questo.
Lui ha ditto che non può cambiare la suafaccia straniero, ma lui si sente essere ora come un giapponese.

Per Iui la traduzione di "Turezuregusa" di Kenkou Yoshida sembra essere il primo capolaboro tra sue opere. Quando lo traduceva , lui stesso si sentiva come Kenkou Yoshida. Tale quale il pensiero di Kenkou Yoshida era come il proprio pensiero. Per esempio, la luna che stava calando dalla piena luna è più bella. È una d elle caratteristiche dei giapponesi a potere capire la bellezza dell'incompletezza.

東京大空襲のさい、母親を疎開させようとして東京駅に着いた時の、高見順の日記から。
夕闇が人々の頭上におりてきた。大声が聞こえてくる。役人の声だ。怒号に近かった。
民衆は黙々と、おとなしく忠実に動いていた。焼けた茶碗。ぼろ切れなどに入れたこれまた焼けた洗面器をかかえて、焼けた布団を背負い、左右に小さな子供の手を取って、すでに薄暗くなったなかに、命ぜられるままに、動いていた。力なくうごめいている。そんな風にも見えた。私の目にいつか涙がわいていた。いとしさで、愛情で胸がいっぱいだった。
私はこうした人々とともに生き、ともに死にたいと思った。否、私は今、避難民ではないが、こうした人々の一人なのだ、
怒声を発し得る権力も与えられていない。何の頼るべき権力も、そうした財力も持たない。黙々と我慢している。そして心から日本を愛し、信じている庶民の、私も一人だった。 
                               高見順著「敗戦日記」より

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by pypiko | 2011-10-17 18:45 | 語学

ドナルド・キーン氏日本人になる

テレビで最近日本に帰化したドナルドキーン氏の特集を放送していました。
多くの外国人が日本を離れた東日本震災の直後に氏がどうして日本に帰化する道を選んだのか、その理由が明かされていました。
氏が日本文学にどれほど精通し、日本を世界に知らしめるために書かれた出版物がいかに多いかなどが語られていました。
その中で印象に残ったいくつかのエピソードについてピックアップしてみます。
彼は1922年生まれで、今年89才です。自分は顔は外国人であることに変わらないが、中身は日本人だそうです。
日本との関わりは、1940年、厚さに比して安価だったと言うだけの理由で49セントで購入したアーサー・ウイリー訳の源氏物語に感動したのが始まりだそうです。
コロンビア大学で日本語を学んだあとカリフォルニアの海軍日本語学校に入り1年半で海軍情報士官の資格をうけ、日本の情報を翻訳する仕事に就く。これはとても無味乾燥は文章でおもしろみがなかったそうです。ハワイの捕虜収容所で日本人捕虜との監視役の仕事につきそこの捕虜達との交流が日本人へ理解を深めるきっかけとなったそうです。
日本の敗戦の前後の苦境の時期の日本人の日記を集めて本にして出版されています。

その中で高見順著「敗戦日記」に大きな感銘をうけたことが書かれています。
東京大空襲のさい、母親を疎開させようとして東京駅に着いた時の、高見順の日記から。
夕闇が人々の頭上におりてきた。大声が聞こえてくる。役人の声だ。怒号に近かった。
民衆は黙々と、おとなしく忠実に動いていた。焼けた茶碗。ぼろ切れなどに入れたこれまた焼けた洗面器をかかえて、焼けた布団を背負い、左右に小さな子供の手を取って、すでに薄暗くなったなかに、命ぜられるままに、動いていた。力なくうごめいている。そんな風にも見えた。私の目にいつか涙がわいていた。いとしさで、愛情で胸がいっぱいだった。
私はこうした人々とともに生き、ともに死にたいと思った。否、私は今、避難民ではないが、こうした人々の一人なのだ、
怒声を発し得る権力も与えられていない。何の頼るべき権力も、そうした財力も持たない。黙々と我慢している。そして心から日本を愛し、信じている庶民の、私も一人だった。 
                               高見順著「敗戦日記」より

氏は言います。
高見順の日記の言葉が私の日本人となる決意を後押ししたのですと。                    

芭蕉の奥の細道もたどること今回二度目。中尊寺の金色堂の美しさに魅了される。地上の極楽にいる気持ちにさせてくれると。 もっと早く世界遺産に入れるべきものだったと。

さくらについては、さくらは美しく散るが梅は汚くなってもまだ木に残って居る。このあたりが日本人にさくらが愛される理由だと。さくらの美しさは認めるが桜の下でお酒を飲み踊り騒ぐ習慣は受け入れがたかったがこれも含めて認めるようになった。今や自分は顔は外国人で変えようがないが中身は日本人になったと感じている。

吉田兼好(1283年頃~1352年頃)の『徒然草』(1330年)の翻訳が自分では上出来だと思っていると。それは訳をしているとき自分が吉田兼好になったような気分になって吉田兼好の考えが自分の考えのようだったことが理由。たとえば満月よりも欠けた月の方が美しいと思う。不完全の美を理解出来るのは日本人の特徴という。
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by pypiko | 2011-10-17 14:08 | その他

秋の鶴舞公園 3

最近は鶴舞図書館に行くのに鶴舞公園を通り抜けて行くのが習慣になりました。今日はキンモクセイのほのかな香りがあたりに漂っているのに気がついて視線を上に上げるとすぐ近くにその芳香の発信源がありました。ここ数日同じようなことが何度かありました。すなわち道々、香りに気がつき上を見上げると必ず、すぐ近くにキンモクセイが見つかります。まるでかくれんぼうをしている子どもが「私はここよ」と行っているみたいです。香りはそれほど遠くまで届かないのですね。それでも自己主張はしっかりしてきます。

キンモクセイ
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ツクバネウツギ
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by pypiko | 2011-10-14 13:58 | その他

伊作文 ローマでの四日目

Settembre 2.
Questo giorno io ho deciso di seguire la durata del corso che io ho interrotto a causa di coxalgia il giorno precedente. Il corso è dalla piazza della Bocca della Verità al Circo Massimo.
Io sono partita per la stazione Termini a piedi dal’albergo alle 8 e mezzo. Da lì io ho preso l’autobus No 170 e sono disceso della stazione di Bocca della Verità. Pòi ho camminato verso la chiesa di Santa Maria in Cosmedin.
Davanti alla chieza in cui c’è la Bocca della Verità si era formata una lunga coda. La chieza era ancola chiusa perchè il tempo era troppo presto.
Forse loro avranno voluto vedere se ereno dei bugiardi.
Io sono passato senza tentare, perchè io ho già conosciuto me stessa. Io sono una bugiarda.
Passato la chiesa, c’era la Via del Circo Massino. Al luogo un po’ avanti ci si divede il clivo dei pubulici per M. Aventino. Io ho camminato verso M. Aventino.
Per la strada ho girato a destra e da lì sono passata via S. Sabina. Al fondo della strada c’era la chiesa S. Alessio. La porte del edificio accanto alla chiesa ha la bocca della chiave che è famosa. Cioè quando si guarda dalla bocca di chiave si puo guardare la cupola di Basillica di S. Pietro attraverso la bocca della chiave. Anche io l’ho quardato. Io ho pensato che questo fenomeno sia un miracolo.
Tornando per la stessa strada io sono entrata in due chiesa ; la chiesa S. Alessio e la chiesa S.Sabina. Ci ho potuto riaposare bene, perchè questo giorno faceva molto caldo. Dal M. Aventino ho potuto vedere il panoramo splendido del’ altra riva del fiume Tevere in cui c’è la città del Vaticano. Io sono sceso per la via S. Sabina e la via di Valle Murcia fino al Circo Massimo.
Ai due lati della via di Valle Murcia c’ era il giardino della rosa. Attorno era piena dell’aroma delle rose.
Nella piazza nella Via del Circo Massimo ho riposato un po’ guardando Circo Massimo o M. Palatino. Mi ha fatto ricordare di Messalina o di incendio dell’epoca di Nerone.
Poì io ho camminata verso la stazione di metropolitano di Circo Massimo.
Nel bar vicino alla statione Circo Massimo io ho preso il planzo; un cappuccino e un pannino di carne e verdura.
Dopo il pranzo io ho deciso di tornare all’albergo, forse era ancora presto. Io ho preso la metropolitana fino alla stazione Termini. Da lì sono andata a piedi all’albergo.
Quando sono arrvarta, ancora era 12 ore. La pulizia della stanza non era stata ancora fatta. Dopo avere chiesto la pulizia ho visitato due chiese, la Bassilica di S. Maria Maggiore e S. Giovanni in Laterano. Al tornare all’albergo ho preso la metropolitana dalla stazione di Manzoni alla stazione di Termini. Io sono tornato alle 2 ore. Io ho dovuto aspettare che finissero di purire perchè la purizia non era ancora finita.
Io mi sono fatto prenatare dall’ albergo il ristaurante in cui si mangia il piatto italiano buono. Il nome del ristorante era Antica Boeme. Fino al ristorante ci vuole 2 minuti a piedi. Era molto vicino all’ albergo. Mi sono è molto. Il piatto era buono e l’ atomosfera era bene. Io ho preso un bicchierre di vino bianco, la rasania come primo piatto e la bistecca di vitello come second piatto. Per me era buono ma troppo molto. Io ho mangiato a meta di ogni piatto.
Il conto era 27 euro e 50. Io ho dato 30 euro ed ho detto “il resto non bisogno”.

La bocca della chiave
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Il panoramo splendido del’ altra riva del fiume
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La via di Valle Murcia
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Il giardino della rosa
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Il Circo Massimo
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by pypiko | 2011-10-11 17:00 | 語学

秋の鶴舞公園 2

鶴舞図書館へ行くのに昨日見たドングリの木をもう一度見るつもりで鶴舞公演を通り抜けて行きがてら緑化センターを見かけました。中へ入ると指導員の方が詰めておられたので質問させていただきました。
そしてわかったことはどんぐりのなっている木はヒマラヤスギだそうです。一本の木だけにドングリが鈴なりになって他の木には殆ど木の実がつかなかったわけはたぶんその木だけが受粉の条件が良かったせいでしょうというお返事でした。

緑化センター
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前列ヒマラヤスギのどんぐり、後列松かさ
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緑化センターの中庭のスイフヨウ
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午前11時ごろ 白色とうす桃色の花が混在
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酔っぱらったスイフヨウを夜にまた見に来ようかなと思っています。
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by pypiko | 2011-10-07 13:29 | その他

秋の鶴舞公園 1

鶴舞公演は家から7,800メートルの距離にあります。私の散歩道の一つです。
ベンチに座って缶コーヒーを飲むために視線を上に上げると向こうの方に木の実を
たわわに付けた一本の木が目に入りました。引きつけられるように側まで行って
よくよく観察して来ました。不思議なことに同じ種類の木が何本もあったのに他の木には
実がついていないのです。実を体いっぱいに付けているのはこの木一本だけでした。

どんぐりをいっぱいつけた大木

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去年「なばなの里」で見たコスモス畑を思い出して、今年もコスモスを「見たいな」と思っていたところ近場の鶴舞公園の縮小版ですませることができました。満足でした。

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バラの畑に出ました。バラはいつの季節に咲くのかしら。いろいろの品種があるのでしょうね。バラはやっぱり華やかな雰囲気がありますね。遠景の建物は名古屋大学付属病院です。

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からすもひとりで憩う。私のように。

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by pypiko | 2011-10-06 21:44 | その他

伊作文 ローマでの三日目

Settembre 1.
Io sono partita dal'albergo alle 8 e mezzo.
Io intendevo di camminare secondo la terzo parte della guida di Nanami Shiono.
Il corso è di fare una passaggiata dal palazzo Altemps al circo massimo.
Come si fa per andare al palazzo Altemps del punto di partenza, questo era un problema per me. Perchè il palazzo Altemps è lontano dal mio albergo.
Io ho pensato due corsi. Uno è il corso che si va alla stazione Spagna con la metropolotana, da lì al palazzo Altemps si va a piedi. I’ altro è il corso che si va alla Piazza Pia a fianco del Castel Sant’Angelo con l'autobus, da lì si va a piedi. Io ho scelto il secondo corso, perchè in confronto sulla mappa le due distanze che si deve camminare il secondo corso sembrava essere più corto.
Per questo ho preso l’autobus No 40 e sono scesa alla piazza Pia a fianco del Castel Sant’Angelo, da lì ho camminata lungo il Fiume Tevere fino all’ estremità del ponte Umberto poi ho attraversato il Ponte Umberto. Là c'era il palazzo Altemps che è il punto di partenza di questa volta secondo la guida di Nanami Shiono.
Da lì alla Piazza Navona ci vogliono pocchi minuti a piedi. Ci sono tre fontane nella Piazza Navona: la fontana di Nettuno, la fontana del Fiumi, la fontana del Moro. Io le fotografavo molte volte da diversi angoli. Dopo questo io ho finito per essere molto stanca.
Poi io ho visitato la chiesa di San Luigi dei Francesi per vedere delle pitture di Caravaggio. Tra loro c’era anche un famoso pitture “la Vocazione di San Matteo” di Caravaggio. Poi io ho visitato il Panteon. Ogni volta che io ero a Roma, io lo visitavo. Cioè io ho gia visitato tre volte il Pateon. Mi piacce molto questo edificio.
Poi io ho cercato il caffe “S. Eustachio” che Nanami Shiono consiglia nel suo libro. Lì io ho mangiato il pranzo. Io ho preso cappuccino e il pane con la mela secca. Era molto buono.
Dopo prazo, quando io ho cominciato a camminare, io ho sentito coxalgìa destra che era la mia prima esperienza. Io ho deciso di finire di fare la passagiata di questo giorno.
Questa sera io sono andata al susi_ristorante “Hasekura”.
Fino allora nonstante io avessi spesso terefonavo a questo ristrante, nessuno non mi rispondeva. Ma al questo ogiorno finalmente ho pottuto parlare con loro. Sembra che loro non lavoravano per vacanze estive. Io ho prenatao una tavola per questa sera.
Io sono andata al questo ristorante "Hasekura." Ci io ho preso un bicchiere di sake, Il sashimi di tonno, il piatto del aquilone, il salmone , l'alga marina e il cetriolo conditto con aceto, il tukemono misto, la zuppa di miso, il riso cotto. Il costo erano 50 euro e 5 euro come mancia.
Questo cena era molto buona per me. L’atomosfera del ristaotante mi è piaccuta molto. I due camerieri italiani parlavano bene giaponese e erano molto gentili.

la fontana del Nettuno
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la fontana delle Fiumi
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la fontana del Moro
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la chiesa di San Luigi dei Francesi
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le tre pitture di Caravaggio
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la Vocazione di San Matteo
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by pypiko | 2011-10-03 15:58 | イタリア旅行