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瑠璃のかなたに

引き揚げ

昭和20年が敗戦の年である。それまで、韓国で裁判官だった父は、韓国人の犯罪者もたくさん裁いてきたのだろう。父の覚悟の言葉を何度となく聞かされた。自分はみんなと一緒に帰れないかもしれない。その場合の母と子供三人、姉(小学四年)、私(小学二年)、弟(1歳)の四人で帰る心構えを説いていた。

8月の終戦から三ヵ月後引き揚げの時期が決まった。家の周りの空気はなんとなく今までとは違っていた。家は京城(今のソウル)の山手にあり深閑とした日本人ばかりの住む住宅地にあった。学校でも韓国人の生徒はいなかったし、家の外でも韓国人を目にすることはめったになかった。漢江の川を見下せる高台にあって、そこから京城の中心街にある三越デパートへ行くときに途中の小さなトンネルの入り口で白い韓国服をまとった韓国人が物乞いをしているのを時々見かけたぐらいだった。

ところが敗戦後は家の近くでやたらと韓国人が目に付いた。今まで虐げられていた人々の怒りが爆発していたのだろう。外は危険な状態だった。家々のガラス戸は台風の前のように木材でくぎ付けされ外出も制限された。どうせ持ち帰ることの出来ないものは人に上げたりされたのだろうか。外で遊ぶ韓国人の女の子が私の洋服を来て遊んでいたのを見かけたときは複雑な思いだった。

私たちはおままごとに雛飾りのお人形や小道具を使うことを許された。どこでどのように手に入れたのか覚えがないが、実験用のフラスコやガラス管を使って水を流して遊んだこともあった。

8月に終戦、11月に引き揚げだったわけだが、家を発った時のことは思い出せない。小学4年の姉は、前年の8月に生まれた1才3ヶ月の乳飲み子の弟をおんぶ、小学2年の私は弟のおむつを背負わされた。弟はさぞ居心地が悪かっただろうが、泣いたり、むずかったりして困らせた印象はない。大きくなったからも穏和な性格は変わらないので特別に良い子だったのだろう。もちろん大人の父と母はもてる限りの大荷物だったことだろう。実生活には融通の利かない父はやれ本を持って帰るだの碁盤を持って帰えるだのといって母をあきれかえらせていたが、結局母の采配通りに荷物を持たされたようだ。10キロぐらいはあったであろう1才3ヶ月の弟を背負った姉には随分過酷だったことと思われる。それに比べると遙かに軽いはずのおむつでさえ長時間背負い続けると、小学2年生の私には耐え難かった。

持ち帰ることが許された、一人あたりに割り当てられたわずかなお金の金額も、たいていの人は上手に隠しもって規定以上の金額を持ち帰ったそうだ。しかし父は裁判官という職業柄、頑として譲らず馬鹿正直に規定の金額しか持って帰らなかったと母は苦情を言っていた。

あちこちでやたら長時間待たされた。京城から釜山までは牛や馬並みに有蓋貨物列車にぎゅうぎゅう詰めの状態で運ばれた。釜山で行列を作って船を待っているとき、二人の米兵が私たちのところへ近づいて姉と私を見て英語で話しかけた。愛想のいい表情から、たぶん「かわいい姉妹だね」とでもいったようだったが、父が烈火の如く怒りを爆発させた。二人はすごすごと立ち去った。

裁判官だった父は普段でも眼光が鋭く、その目で睨み付けられると極悪人さえも震え上がらせることが出来たそうだ。その時の私は父の怒りの意味が分からず、誉めてくれた米兵さんに失礼では思った。父にすれば娘達をさらわれるのではと心配のあまりだったのだろうと知ったのは、ずっと後になって、姉との思い出話の中で姉から教わったことだった。

長い長い待ち時間のあと、私たち釜山を発った。釜山から博多への船には乗れる限りの人員をぎゅうぎゅう詰めに、船底に押し込められた。日本の土を始めて踏んだのは博多からだった。博多では何処かの建物の大広間で一夜を雑魚寝で過ごした。

博多から大阪までは石炭を積むためような無蓋貨物列車だった。博多から大阪までの行程は今の新幹線でなら快適に消化される距離だが、がたごとと走る無害貨車に詰め込まれいつ終わるとも知れない身の置き所のない体制での移動である。 ぱらつく雨の試練にも遭遇した。原爆直後の広島を通った。原爆の後の広島も大空爆を受けた大阪も同じように焼け野原だったので、原爆の凄さやその意味は分からずに通過した。広島辺りで動く無蓋貨車の上から父と母にしっかり抱かれながらおしっこをした時の怖かったことが記憶に残っている。

目指すは奈良県北葛城郡平群村で父の弟のお嫁さんの実家の離れだった。そこで私たちの始めての日本での一年目を過ごす事になった。
by pypiko | 2011-02-06 16:18 | 過去の思い出