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瑠璃のかなたに

ドナルド・キーン氏日本人になる

テレビで最近日本に帰化したドナルドキーン氏の特集を放送していました。
多くの外国人が日本を離れた東日本震災の直後に氏がどうして日本に帰化する道を選んだのか、その理由が明かされていました。
氏が日本文学にどれほど精通し、日本を世界に知らしめるために書かれた出版物がいかに多いかなどが語られていました。
その中で印象に残ったいくつかのエピソードについてピックアップしてみます。
彼は1922年生まれで、今年89才です。自分は顔は外国人であることに変わらないが、中身は日本人だそうです。
日本との関わりは、1940年、厚さに比して安価だったと言うだけの理由で49セントで購入したアーサー・ウイリー訳の源氏物語に感動したのが始まりだそうです。
コロンビア大学で日本語を学んだあとカリフォルニアの海軍日本語学校に入り1年半で海軍情報士官の資格をうけ、日本の情報を翻訳する仕事に就く。これはとても無味乾燥は文章でおもしろみがなかったそうです。ハワイの捕虜収容所で日本人捕虜との監視役の仕事につきそこの捕虜達との交流が日本人へ理解を深めるきっかけとなったそうです。
日本の敗戦の前後の苦境の時期の日本人の日記を集めて本にして出版されています。

その中で高見順著「敗戦日記」に大きな感銘をうけたことが書かれています。
東京大空襲のさい、母親を疎開させようとして東京駅に着いた時の、高見順の日記から。
夕闇が人々の頭上におりてきた。大声が聞こえてくる。役人の声だ。怒号に近かった。
民衆は黙々と、おとなしく忠実に動いていた。焼けた茶碗。ぼろ切れなどに入れたこれまた焼けた洗面器をかかえて、焼けた布団を背負い、左右に小さな子供の手を取って、すでに薄暗くなったなかに、命ぜられるままに、動いていた。力なくうごめいている。そんな風にも見えた。私の目にいつか涙がわいていた。いとしさで、愛情で胸がいっぱいだった。
私はこうした人々とともに生き、ともに死にたいと思った。否、私は今、避難民ではないが、こうした人々の一人なのだ、
怒声を発し得る権力も与えられていない。何の頼るべき権力も、そうした財力も持たない。黙々と我慢している。そして心から日本を愛し、信じている庶民の、私も一人だった。 
                               高見順著「敗戦日記」より

氏は言います。
高見順の日記の言葉が私の日本人となる決意を後押ししたのですと。                    

芭蕉の奥の細道もたどること今回二度目。中尊寺の金色堂の美しさに魅了される。地上の極楽にいる気持ちにさせてくれると。 もっと早く世界遺産に入れるべきものだったと。

さくらについては、さくらは美しく散るが梅は汚くなってもまだ木に残って居る。このあたりが日本人にさくらが愛される理由だと。さくらの美しさは認めるが桜の下でお酒を飲み踊り騒ぐ習慣は受け入れがたかったがこれも含めて認めるようになった。今や自分は顔は外国人で変えようがないが中身は日本人になったと感じている。

吉田兼好(1283年頃~1352年頃)の『徒然草』(1330年)の翻訳が自分では上出来だと思っていると。それは訳をしているとき自分が吉田兼好になったような気分になって吉田兼好の考えが自分の考えのようだったことが理由。たとえば満月よりも欠けた月の方が美しいと思う。不完全の美を理解出来るのは日本人の特徴という。
by pypiko | 2011-10-17 14:08 | その他